はじめに
本日は家作りの話からかなり脱線するため、興味のない方はスルーしてください。
上記の画像は私の持っている家作りの本の一部です。順番に本のタイトルを説明しますと、
- 右上 フラット35住宅工事仕様書(住宅金融支援機構)
- 左上 住宅の省エネルギー基準の解説(IBEC)
- 左下 「小さな家」70のレシピ(伊礼智さん)
- 右下 楽しく分かる!木造入門(佐藤実さん)
何の本か簡単にいうと、順番にいえば耐久性・断熱気密・空間デザイン・耐震性の本だと思って下さい(フラット35の工事仕様書の内容は実際は多岐に渡っています)。
本日は家作りでは多様な価値観があると言われますが、果たして何を優先すべきかという話ですが、結論からいうと予算が限られていたとしても私は全てを叶えたいと考えます。
そんなの難しいと考えたり批評することは簡単ですが、私はすべてのことではないものの不可能を可能にしたい、分からないものを分かりたいと思ってしまう時があるのです。
価値観とは作り手の都合?
家作りはコスト・デザイン・性能・間取り・人間関係など重視すべきことは沢山あります。ただ、すべてをかなえる能力の高い作り手に出会うことなんて奇跡だと思います。
そうなると、自分の予算の限界と作り手の能力の限界に合わせて家作りは優先順位が大切といった作り手側の論理に消費者は巻き込まれてしまいます。
ローコストが得意な工務店に施主が耐震等級3を取りたいと言っても工務店側は慣れない構造計算などは「過剰性能」「コストが施主の負担になる」といった話のすり替えをするでしょう。
なんだか、非常に偏った選択肢の中からどれを選ぶかという作り手の論理に消費者が合わせなければならないということを世の中では価値観と言っているような気がします。
足るを知る者は富む。すべてを求めてはいけない。ということを消費者が思うのであれば良いですが、それが作り手側から言われるのはちょっとおかしいと思います。
住宅業者の都合がセールストークとなって消費者がそれに同調しているケースが多いと思いますが、本当にそれが自分の価値観なのでしょうか?
もちろん、予算が少ないのに作り手側に過剰な要求をするという意味ではなくて、消費者が良く勉強してリスクをとって家作りを考えないと消費者側の要求は満たせないでしょう。
つまり、予算が少ないという戦略の問題を行動やアイデアという戦術で挽回できるかという話になります。戦術が弱ければ予算が少ないと作り手の理論に巻き込まれることになるでしょう。
ある意味、奇跡を起こせと言っているようなものですが、私は仕事で炎上プロジェクトの火消しをしばしば担当するので家作りという短期決戦なら戦略の問題を戦術で挽回できると思っています。
家作りの本質は人それぞれ
自分や家族のやりたいことを叶えることが家作りの本質と捉える人もいれば、予算が少ない場合であっても備わっていて欲しいことが家作りの本質と捉える人もいるでしょう。
良くある話は間取りの自由度と耐震性のどちらを優先すべきかというような話で、間取りの自由度を望む人は耐震性に拘って生活動線などが窮屈になるのは本末転倒だと思うでしょう。
一方で耐震性を重視する人は巨大地震の際に家族の生命を守れなくては家としての機能を果たせていないから間取りを重視するなんて本末転倒だと思うでしょう。
生活の場という家の日常の生活動線などを優先するか滅多に起きない災害時の役割を優先するのか、どちらも正解だと思うので私はどちらも妥協したくありません。
誤解が多いのは耐震等級3を取る際の構造計算費用は30万円程度で材料の増加を合わせても50万円程度の話だと思いますからお金がそんなにかかる話ではありません。
ただ、床暖房が必要かどうかといった問題は予算がある人にとっては家作りの本質には関係ないものの住宅ローンを多額に組んで返済が苦しくなる人にとっては本質的問題と言えるでしょう。
お金がない人が太陽光パネルは不要といった場合、その人にとっては本質的に必要のないものであっても、能力と経済力のある人にはそれは本質的問題とはなりえません。
お金があるかないかで変わるような価値観であるならばそれは家作りの本質とは言えず、大半は予算が少ない人が自分の家作りを認めて欲しい・共感して欲しいと言っているのだと思います。
そして、バランスという言葉は厄介だと思います。自分の価値観と合わない意見に対してバランスが悪いと言う人もいますし、全体の到達度合いを眺めてバランスと言う人もいます。
私の場合は一見すると矛盾してしまうことを諦めずに矛盾させない方法がないかを考えることが好きであるため、予算がないならこんなやり方があるなどと閃いた時が快感でもあります。
ただし、日本家屋のような風情のある建物をもし手に入れたとしたら、その住宅に高気密は求めないでしょう。家や土地柄に生活を合わせることも楽しいと思います。
しかし、新築で家を建てるなら高気密高断熱住宅にしますね。日本の夏は高温多湿であり先人はカビや腐朽から家を守るために通風や日干しなどをしてきました。
私の中では高温多湿から家を守るという目的を達成することにおいてはこれまでの通風と高気密高断熱住宅での除湿は手段の違いであって目的は同じだと思っています。
だから窓を絶対に開けてはいけないなんて思ってません。外の湿度が低い時期は窓は開けたければあければ良いのです。ただ、花粉症の人には窓を開けなくても過ごせる家がいいですね。
便利な生活になり過ぎてはいけないのか?
これは好みの問題です。そうはいっても現代の生活で機械を使わないなんてことはあり得ません。洗濯機やエアコンを使わない生活なんてもはや無理でしょう。
便利になると失うものがあると言われますが、江戸時代の人からみれば我々はどう見えるのでしょうか?そして、昔の方が精神的に豊かであったなんて言えないと思います。
私は今の若い人をみて精神的に貧しいなどと感じていません。その時代時代の豊かさがありますし、いまの漫画やアニメでもヒーローものが多くてやはり日本人は日本人なんだなと思います。
ちょっと話がずれますが人や動物への虐待やハラスメントが許されない現代の風潮ですが、漫画やアニメの中では堂々とハラスメントをやっているのは不思議ですね。
さて、温故知新という言葉や田園風景の眺めなどは良いとは思いますが、例えば田んぼなどを自然の豊かさだと思っている人がいると思いますが、あれは人造物であってダムと同じです。
逆に茅葺き屋根に入母屋造りの家なんて、屋根の断熱性能は半端ではないですし窓の日射遮蔽もできるため実は理にかなったパッシブ設計の高断熱住宅なんですよ。
昔の家は良いと言いながら現代風の家に大きな窓を付けて軒や庇もなく断熱をあまりしていない家は昔の家とはテイストは似ているものの実態は大きくかけ離れている場合があります。
過去から何を学んで継承するかは人それぞれですが、温故知新と言ってる住宅会社に限ってあまり温故知新になっていないのではないかと思う時があります。
専門家の意見はあてにならない
お医者さんは外科や内科などに分かれていて自分の専門外であれば他の専門家に任せるという分業が当たり前だと思います。患者側もそれを心得ています。
一方で家作りにおいて例えば耐震性に詳しくない設計士は施主が耐震等級3が欲しいというと「過剰正常である」「コストが増える」といった反応をする場合があると思います。
家作りの専門家だと思っている設計士に言われるとそうかなと素人は思ってしまうでしょう。でも医者のように知らない分野は知らないと言わないのが住宅業界の不思議なところです。
また、家作りのよくあるテーマとして、持ち家は負債であり賃貸が良いというものがあります。しかし、家にある程度の造形や性能を求める人は賃貸では要求を満たせません。
例えば、私のように四季を通じて家の湿度をコントロールしたいなんてことを家に求めた場合、賃貸住宅ではほぼ無理だと思います。家の空間デザインを求める人も同様でしょう。
ファイナンシャルプランナーは家作りの専門家ではありません。私から言わせてもらえば固定金利か変動金利かと言う前に何年で建て替えになる家なのかが重要だと思います。
住宅ローンが終わる頃に30年で建て替えることになってしまう家の金利に対して変動か固定かを考える前に、家の性能を考えて長持ちする家をまずは考えるべきであると思います。
もちろん、家の性能や耐久性に詳しいファイナンシャルプランナーの方もいると思いますが、お医者さんと同じで外科と内科が分かる人なんてそうそういないと思います。
承認要求、自己実現
いいねとか共感という言葉が近年では流行っていると思います。ただ、私は共感はあまり求めないことにしています。共感を得ようと思ってそれが得られないと凹みますからね。
また、自分の意見に賛同して欲しいときに自分と異なる意見に対して以下のような言葉を述べる場合があると思います。
本質的ではない、バランスが重要、本末転倒、短絡的、視野が狭い、想像力が足りない、冷静に考えよう、自分の頭で考えよう、決めつけてはいけない、宗教なの?、インスタ映えを狙っているの?
これは自分の意見に賛同して欲しいという場合のまくら言葉なのだと思います。敵意がある場合はレッテルを貼ったり、揚げ足を取ったり、言葉狩りをするようなケースもあるでしょう。
マズローの法則というものがあります。他者から認められたい褒められたいということは必要だと思いますが、それに頼り切るとモチベーションが上下して精神不安定になると思います。
共感などの他者承認要求は苦しい時は痛みを抑える「麻酔」にはなると思いますが、それに慣れて常時利用するとそこから抜け出せない「麻薬」になってしまうと思います。
よって、自分で自分を認められる自己承認やさらに自己達成というところに自分がいれば、他人から褒められることや共感はあまり必要のない状態になると思います。
ただ、その状態では独善という形になりかねないため何かの基準と比較したり人の意見を聞きながら常に自分を振り返り、自分の状況や到達レベルを確かめていく必要があると思います。
私は「モチベーション」という言葉はあまり好きではありません。常にやる気に満ち溢れていたいですし、自分の機嫌は自分で取りたいと思うからです。
モチベーションという存在をなるべく消してしまえば常にやる気に満ちた状態でいられると思いますし、モチベーションを気にしてしまうとやる気を起こすまでに時間がかかってしまいます。
モチベーションを一度、自分のエネルギーなり燃料として使ってしまうと精神不安定になって非常に燃費が悪いと思います。エアコンでいうとON・OFFを頻繁に行うような運転ですね。
私はモチベーションというものは本当は存在しないのではないかと思っています。人間が作り出したオバケなのではないかと。人にその考えを強要することはありませんがそう思っています。
さて、家作りにおいても自分の価値観だと思っているものに対して共感を得ることに疲れてしまうという現象はあると思います。
人に共感をして励ますことは大事ですが、世の中が共感に溢れすぎると共感を期待する方も共感をする方も疲れてしまうのかなと思います。
今の自分を基準に考えない
ポジショントークという言葉があります。現在の自分の状態を認めて欲しいという現象でしょう。
人間は自分を守る時に天才的な頭の回転をします。仕事でミスが多い人の言い訳が秀逸なのは自己防衛本能によって頭がフル回転するからでしょう。
家作りにおいても自分の価値観のすべてを守ろうとする人と、失敗は失敗で受け入れてもっと良いものに気が付きたい次に生かしたいという人に分かれると思います。
共感と同じように今の自分のすべて守ろうとすると疲れてしまうと思います。家作りにおいて全部が失敗であるはずはないので、失敗した部分は認めた方が気持ちが楽になると思います。
ただ、そんなことはたやすくありません。なぜなら35年の住宅ローンを抱えて一生懸命に建てた家を否定することになりかねないからです。多少失敗しても住めば都だなんて簡単には言えません。
私も一軒目の家に住んでいる時は非常に満足していましたが、今になって振り返ると合格点を出せない家でした。それでも当時の私が一生懸命に建てた家なのでそれで良いと思っています。
決めつけるなんて存在しない
インターネットをみていると決めつけた意見をいうと批評されるため、「人それぞれですが」「絶対的な答えはありませんが」と言うまくら言葉が付いていると思います。面倒な世の中ですね。
そもそも無料のインターネットの情報で、自分の子供でもないのに情報の発信者が他人を決めつけることなんてできません。それに子供だって独立すれば親の言う事なんて聞きませんよ。
影響力のある人であっても専門家であっても、決めるのは情報を受け取った側ですから、そもそも決めつけることなんでできません。
なぜ、決める権利を持たない人の無料の情報に対して「決めつけてはいけない」なんていうのは不思議に思いますが、これも自分の価値観に合わない人に対するまくら言葉なのでしょう。
同様に「絶対」なんてありえません。この世の中は何かの条件のもとに正しいということが証明できる相対的真実であって、絶対的真実なんてどうやって証明するのでしょうか?
日常使う「絶対」とは言葉のあやだと思うのですが、神様でもあるまいし絶対なんていう存在しないオバケを作り上げて過剰に意識しているのだと私は思っています。
意外と近い価値観?
例えば、空間デザインを重視する意匠系設計士の家と高気密高断熱住宅は一般的には価値観が対立するかの如く言われますが、家の外観から見ると全然対立していないと思います。
(出典:suumo)
上記はアメリカンファーマーと言われる意匠系設計士がしばしば模倣する家の外観ですが、日本家屋に比較して窓がかなり少なくて小さいです。
デザインに拘る建築家は室内の光と影を重視するため、かなり窓をしぼって壁を残すことから、高気密高断熱住宅にみられるパッシブ設計と似たような外観になることが多いのです。
もちろん、室内や庭を含めた空間デザインは違いますが、外観が近しいということは室内の柱や壁の配置は似通ったものになるはずです。
高気密高断熱住宅だと言われると南側以外の窓が小さい家は開放感がないと言われて、デザイン住宅だと言われて窓が小さい家だと開放感の問題が言われないという不思議な現象が起きます。
似たような例としてマンションはコンクリート構造であるため気密性が良いですが、マンションが高気密住宅だと知らない人が大半ですから息苦しいと言う人は聞いたことがありません。
このように価値観と言われているものの大半は先入観に根差している場合があると思います。
現実的な問題としてすべてを叶えるとコストが膨らむからということが大きな理由だと思いますが、それよりも最初からすべては叶わないという思い込みや否定があると思います。
最後に
家作りは予算に応じて優先順位を建てて検討した方が良いと言われますが、私にとってはそんなの関係ねぇです。価値観に応じた家作りなんて話も私にはピンときません。
私は予算が少なくてもすべてを叶えたい。常識を覆して不可能を可能にしてみたいのです。
確かにある一定の期間内に限られた予算の中で家作りを考えるとなると、価値観や優先順位というツール(考え方)を利用することは理解ができますがツールに使われたくはないですね。
まぁ、血液型診断のように楽しむレベルであれば人を型にはめて考えることも良いですが、なんで多額の費用をかける家作りで私がそんな決まった型にはめられなければならないのかと思います。
そして、一条工務店というハウスメーカーを選んだからって型にハマっているなんて思われるという型にはめられることは、私にとっては意味のないことです。
言葉は非常に力を持っています。「みんなちがって、みんないい」という金子みすゞさんの言葉は良く心に響きますし、私は「みんなと同じだって、みんないい」とも思います。
しばしば、沢山流通したものは多くの人が所有するため個性に欠けると言われる現象があり、一条工務店の家もまさにその状態と言えます。
人それぞれですが、私は個性的でありたいと思ったことはありません。だれでも生まれながらにして個性を持っているためなぜそれをアピールする必要があるのか私にはよく分からないからです。
「限られた予算の中で家作りをするには優先順位を付けなくてはいけない」という話は住宅会社が手早く家を建ててもらうための営業トークであり意思決定をするためのツールでしかありません。
注文住宅を何軒も建てた今の自分であるならば少ない予算の中であっても、耐久性・省エネ性・空間デザイン・耐震性に加えて他の要素を含めてすべてを高いレベルで実現したいと考えます。
お金がある人は建物本体価格だけで坪100万円以上するような何でもやってくれるスーパー工務店やスーパー設計事務所にお任せして家を建てれば難しいことを考える必要はないでしょう。
では、予算の少ない庶民は家作りに必要な多様な要素を価値観や優先順位という名のもとに切り捨てていかなければならないのでしょうか?
私は否であると思います。ただ、使いなれた価値観や優先順位という便利なツール(考え方)から開放されるには常識を超えるアイデアが湧き出る状態にしておく必要があると思います。
そのためには常識を疑い、日常の小さなことにでも好奇心を持って調べてみて知識をストックしておいて、似たようなものを見た時に即座に知識を取り出せるようにしておく必要があるでしょう。
今回は家作りのバランスや本質と言われているものの正体について考えてみました。
本日は以上でございます。